地政学(geopolitics)と云われる学問・研究分野がある。国家が置かれる地理的条件により、その国家の政治指向が大きく影響を受けると考えられている。地政学ではその地理的条件によりシーパワー志向となるかランドパワー志向となるか分かれると言われる。現在世界のほとんどの国は固有の軍事力を保持しており、陸軍(Army)、海軍(Navy)、空軍(Air Force)の三軍体制を採ることが多いが、その国がシーパワーの国であるかランドパワーの国であるかは、この三軍への力の入れ方により明示できる。
御承知のように日本は周囲を海で囲まれており、必然的にシーパワー重視となる。第二次世界大戦以前の陸軍は、日本本土での陸戦など想定に無く、海外に進出しての戦闘だけを想定していた。このため日本陸軍には船舶部があり、海外派兵のための輸送力を常に確保していた。さらに現在の強襲揚陸艦の元祖である「神州丸」やLST(戦車揚陸艦)の元祖の「大発」や兵員上陸用の「小発」などの様々な上陸用舟艇を世界に先駆けて独自開発し、輸送船団を敵潜水艦から護衛するための対潜空母「あきつ丸」や制海権の無い海上を渡って前線の兵士に物資を補給するための輸送用潜水艇を開発したり、まさにシーパワーの陸軍の面目躍如の感がある。
一方ドイツ国は国の東西を長い国境線で接しているため、ランドパワー志向となる。第二次大戦中のドイツ空軍の一部はタイガー戦車を押し立てて、陸戦に参加したりして、コテコテのランドパワーの国であった。
この地政学の考えで行くと、アメリカ合衆国は北をカナダと長い国境で接し、南をメキシコと長い国境線で接しているため、ドイツの様にランドパワーの国に成ってもおかしく無い。しかし、実際にはアメリカは陸海空の三軍の他に海兵隊(Marines)を持つ四軍態勢であり、海軍と海兵隊を独立して持つシーパワーの国なのだ。この矛盾は地政学では説明がつかない。これを理解するためにはアメリカ建国以来の歴史を読み解かなければならない。アメリカは歴史の浅い国で、独立戦争時はカナダから攻撃を受けたことがあったが、その後カナダとは友好関係が続き、北からの脅威は無い。一方南のメキシコとは国力が違いすぎ、アメリカ合衆国の発展の歴史はメキシコ侵食の歴史でもあった。このためアメリカがメキシコの脅威となっても、メキシコがアメリカの脅威となることは無かった。このためアメリカはシーパワーの国に成って行った。
以上より、その国がランドパワーの国と成るかシーパワーの国と成るかは、地政学的判断だけでは不十分で歴史的背景も考慮する必要がある。地政学と歴史学を融合した地歴政学(histogeopolitics)と云う概念を持たねばならず、時として地理的背景より歴史的背景の方が大きな影響を持つ。
お隣の中国について考えると、世界で最初に貨幣を発明したのは中国人である。従って中国国民のDNAには商活動という考えが染みついている。後漢の霊帝も商人にあこがれて後宮で模擬店を開き商人のマネをしたとの事です。毛沢東が中国支配を確立した頃、自由な商活動が出来ない統制経済の時代が在ったが、中国五千年の歴史の中では、ほんの瞬きする程度の時間であり、改革開放により商活動が自由に出来るようになると、徒手空拳の中から商売を成功させ大金持ちになった人間が輩出し、たちまち世界第二位の経済大国に伸し上がった。この自由な商活動の最大の妨げとなるのは戦争である。もし中国が台湾に侵攻したら、世界中で中国製品のボイコットが巻き起こり、経済に多大なダメージとなる。戦争が長引けば元の貧しい統制経済に逆戻りすることになり国民は耐えられないだろう。中国を支配する共産党の最大の目的は中国共産党を未来永劫維持する事である。現在の中国共産党は国民選挙により選ばれた政治団体では無いので、もし将来政権が移行するとしたらそれは、平和裏の移行ではなく暴力的な移行となる。従って、国民の動向を注視しない訳には行かない。政府首脳が台湾に侵攻したくても出来ない。台湾に侵攻しない事により中国共産党の維持が困難に成るような危機に瀕しない限り、台湾有事は在り得ない。それよりは台湾との間に緊張関係や融和関係を繰り返す”掛け合い漫才”をしていた方が利益を得易い。
それでは、日本の周辺で有事は無いのかと言えば在る。それはロシアである。中国が古代から貨幣経済を発展させ謳歌して来たのと対照的に、ロシアは農奴と呼ばれる奴隷的国民が大多数を占める奴隷制国家から貨幣経済が根付かない内に、共産党の革命により統制経済体制となった。従ってロシア国民のDNAには貨幣経済が刷り込まれていない。共産党支配が崩壊し自由な商活動が許されるようになっても国民には何をすれば良いのか判らない。国有資産を払い下げられたオリガルヒと呼ばれる様な富豪は誕生したが、中国の様に徒手空拳から巨万の富を得た人の話を聞かない。奴隷は自分で考えて行動しない。ご主人様の命令に従って動くだけだ。従って奴隷的DNAを刷り込まれた国民には統制経済の方が合っている。
ロシアが北方戦争により始めて北の強国スウェーデンに勝利した時、多数のスウェーデン捕虜をシベリアに送った。彼らは生きるために厳しい自然を切り開いたが、これがシベリア開発に役立ことになった。爾来、ロシアでは戦争で奴隷を獲得し、シベリア開発に使役するのが政策となった(戦争捕虜のいない時は囚人を使役した)。日本も終戦後、多くの国民がシベリアに拉致され奴隷労働をさせられた経験を持つ。従って、ロシア国民のDNAには、戦争により領土を拡大して、奴隷を手に入れる事が富国の手段ーと提唱する方が共感を得られやすい。
ロシアの前体制であるソ連は第二次大戦の戦勝国の権利として、千島列島、樺太、北海道を要求したが、北海道の領有は認められなかった。江戸幕府が北海道や千島樺太の探検を進めた背景には、ロシアの南下に対する脅威があった(当時の日本人はロシア人の事を赤蝦夷と呼んだ)。しかし、ロシア人は狩猟民族であり一カ所には定住しない。一つの狩場を狩り尽くしたら他所に移動する。一方日本人は農耕民族であり新しく得た土地に定住する。日本人が入植した地域はロシア人が先に発見し、一時的に居住した場所が多い。従って当時のソ連としては、元々ロシア人が見つけ住んでいた土地が戻って来ただけで、戦勝の権利を得たとは考えていない。北海道を得て初めて戦勝の権利を完遂した事になる。
現在ロシアはウクライナとの戦争で軍事力を消耗させ、新たな対外戦争を始める余裕は無いであろう。しかし、将来的にアメリカのプレゼンスが更に低下し、ロシアが軍事力を回復させれば、脅威が現実のものとなる可能性は高い。