前回述べた通り、終戦の日に政治家が靖国神社を参拝することを中国や韓国が非難する理由として、東京裁判のA級戦犯が合祀されていることを挙げている。「戦争犯罪者を祭った神社を参拝するのは、先の戦争を謙虚に反省していない」と、するものである。 しかし、実際には靖国神社には東京裁判のA級戦犯受刑者は祭られていない。
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年金老人のつぶやき、四方山話
前回述べた通り、終戦の日に政治家が靖国神社を参拝することを中国や韓国が非難する理由として、東京裁判のA級戦犯が合祀されていることを挙げている。「戦争犯罪者を祭った神社を参拝するのは、先の戦争を謙虚に反省していない」と、するものである。 しかし、実際には靖国神社には東京裁判のA級戦犯受刑者は祭られていない。
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今年も例年通り終戦の日の政治家の靖国神社参拝に関して中国や韓国からの批判が喧しいが、今回は靖国神社の問題に関して考えてみたい。
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今日8月15日は77回目の終戦の日にあたります。そこで、今回は何故日本は米国と戦争をしたのかについて考えてみたいと思います。
例によって長くなるので本文はこちら →『中国利権から見た太平洋戦争』
昨日の『池上彰のニュースそうだったのか!!』の番組中で「水道水をそのまま飲める国は?」との設問で日本を含めて12か国しか無いとの話があったが、設問の立て方が不穏当であったと思う。水道水をそのまま飲めない!と言うと何か危険な水道水のような印象を持ってしまう。低開発国や低開発地域を除いて、およそ文明国では水道水は厳密に管理されており、水道水をそのまま飲んでも病気になることは無い。ガンジス河の水をそのまま飲むのとは話が違う。
だから、喉が渇けば水道水を飲んでも大丈夫である。無理して脱水状態になる方が問題である。しかし、番組でも挙げられていたように、大陸国の水道水は硬度が高い。マグネシウムのようなミネラルが大量に入っている。刺激の少ない下剤として酸化マグネシウムが販売されているが、これらの国の水の中にはこのような下剤の成分が大量に含まれている訳であるから、大量に飲むことは勧められない。(また、大量摂取は体内のミネラルのバランスが崩れる心配もある。)
便秘の問題は世界共通の問題であり、日本では伝統的な食事を通して食物繊維を日常的に取る事により予防しているが、欧米では硬度の高い水を飲む事により予防している傾向がある。日本では温泉は入浴するためにあるが、ヨーロッパでは温泉は飲むためにある。硬度の高い温泉水を飲んで便秘を解消するのである。
カリフォルニアで生活した事があるが、渇水期(カリフォルニアは雨季と乾季がある)に、水を流した後の干上がったシンクに赤い砂の様なミネラル分が一面に析出しているのを見たことがあり、やはり飲み水は買った方が良いと思ったことがある。
「前の戦争では京都の街もすっかり焼け野原になりましたー」と、京都の人が言えばその戦争とは応仁の乱(1467~1477年)だったりする。太平洋戦争では日本中の都市は空襲に遭い一面焼け野原になってしまったが、京都では応仁の乱以降全市街が焼け野原になるような被害は受けていない。しかし、実際にはそんな呑気な事を言っていられない事態に直面していたのだった。
第二次世界大戦に勝利するため米国はマンハッタン計画を策定し、全米の頭脳と技術力を総動員して原子爆弾を造り上げた。しかし、せっかくの原子爆弾が完成した時にはドイツは既に降伏しており、日本も戦争遂行する能力を失っていた。石油や物資の本土への輸送の道は寸断され、どんな悲観的予想をしても日本が逆転する可能性は無く、敗戦は時間の問題であった。しかし、原爆という強力な兵器を手にすると軍人はその威力を確かめてみたい欲求に駆られる。無人の砂漠などでの実験ではなく、実際に人の住む都市で効果を確認したくなる。
従って、日本への原爆使用は核兵器の威力を確認するための実験であったのだ。実験であるからには、その効果を確認しやすくするため、投下場所には3つの条件を定めた。①三方が山に囲まれ、一方が開けた平地である事。②原爆の破壊力を具体的に確認できるようにまだ空襲の被害を受けていない事。③ある程度の人口をもった都市である事。
地図を開いてみれば、山が海岸線まで迫り出し、山から流れ出た土砂が堆積した平地に都市が造られた場所が日本中に多くあることが分かる。東京、大阪、名古屋は大都市であるが、①と②の条件にはそぐわないので、原爆実験の候補地にはならなかった。
①~③の三条件にピッタリ合致する都市を米軍は見つけた。それは京都であった。京都は三方を東山、北山、嵐山に囲まれ、南側は淀川に向けて開けている。それまで空襲の被害を受けていない。そして人口も多い。そこで米軍は核実験の第一候補地に京都を選定した。もしかすると京都で最も古い寺の一つである東寺も絢爛たる金閣寺も残っていなかったかも知れない。
しかし、ここで猛烈な反対に遭う。既に日本の敗戦は織り込み済みで、終戦後の日本を統治する予定の民生局から、日本民族の文化の象徴である千年の都を原爆により破壊したら、戦後統治が困難になると心配したのだった。この反対により京都への原爆投下は一旦回避された。しかし、軍部における優先順位一番が変更になった訳では無い。
1945年8月6日広島に原子爆弾が投下された。もし、マンハッタン計画がこの広島に投下したタイプの原爆だけなら人の住む都市を標的とした核実験は、これで終わっていたろう。しかし、マンハッタン計画では同時並行してもう一種類の原爆を開発していたのであった。それはプルトニウム型原爆であった。広島に投下したのはウラニウム型原爆であり、理論的にはプルトニウム型の方がウラニウム型より破壊力が大きいと予想されていた。軍人としては是非プルトニウム型原爆を投下して威力を比較してみたい欲望に駆られる。
実験場所としては京都を希望したが、やはり反対が大きく小倉に投下することが決定した。ところが、何もかも順調に進んだ広島投下と比較して、小倉への投下は何もかもうまく進まなかった。小倉への原爆投下は不可能となり、重い原爆を抱いて飛行する間に長崎に投下の可能性が在るとの連絡が入った。長崎は、①と②の条件は満たすが、平地は狭く③の条件を満たさないため、候補地には挙げられず、あくまでもリザーブ(補欠)であった。せっかくの原爆を海に投棄する訳にもいかず、ともかく投下したというのが8月9日の長崎原爆投下の実態であった。この時、長崎に原爆を投下したB29爆撃機ボックスカーには出発地であるテニアン島まで戻る燃料は無く、占領直後の沖縄に不時着したのであるが、機体に燃料は一滴も残っていなかったと言われている。
その後日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏する訳であるが、京都への原爆投下優先順位一番は終戦の日まで取り消される事は無かった。