戦後80年が経過しても、敗戦後外地から引き上げて来た人々の苦労を偲ばずにはいられない。
話は大昔に遡るが、下剋上の嵐が吹き荒れた戦国時代、各地で多くの争いがあったが、現在の千葉県北部を戦場とした合戦は少ない。有名な所では二度に渡って争われた国府台合戦くらいである。千葉県北部で合戦が少なかった理由は、この地が米が取れないからである。明治時代以前の日本では、米の取れ高が国の豊かさを現わしており、米の取れない地を命懸けで奪い合う者はいなかった。
徳川幕府の時代となり平和な世の中になっても、この地で米作は行われず、馬の放牧地や巻狩りや鷹狩の狩猟場としてしか利用価値は無かった。狩りと云うのは単に武士の娯楽ではなく、軍事訓練の意味もあり、この政策は明治政府になっても引き継がれ、この地は軍事演習場と軍馬を育てる牧場となった。習志野市の名前の由来は、明治6年に明治天皇を迎えて行われた陸軍大演習で見事に操兵を行った篠原少将に感心した天皇が「操兵は篠原に習え」と感状を送ったことにより、この演習場は習篠原(ならしのはら)と呼ばれるようになり、それが習志野になったと言われている。
第二次大戦の敗北により満州から多くの開拓農民が日本に引き揚げて来ることになった。元々日本に農地が無く満州開拓に送った訳だから、日本に彼らに与える農地は無かった。一部の引揚者は南米に新天地を求めて移民して行ったが、残された引揚者に国が与えたのが、下総台地の御料牧場であった。元々農業に向かないから牧場にしていた土地であるから農地になる訳がない。
ここの不毛の地に住み着いた引揚者は、極度の貧困と苦労の末、ピーナッツ農園を開くことに成功した。現在日本のピーナッツ生産量の85%は千葉県産で日本一の生産量を誇る。しかし、やっと成功を掴んだ開拓農民たちに新たな苦難が襲い掛かることになる。
新国際空港の建設である。国は強制的に彼らの土地を収用していった。国の政策により満州の荒野の開拓、不毛の下総台地開拓と苦労を重ねて来て、やっとの思いで成功を掴んだ農民にとって到底容認できることでは無かった。現在でも成田空港闘争(三里塚闘争)は収束した訳では無い。闘争を続ける農民にとっては損得ではなく怨恨に近い。