明治38年(1905年)5月27、28日の二日間にわたって日本海軍連合艦隊とロシア帝国第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)との間に対馬から鬱陵島海域の日本海に於いて激戦が交わされた。後に日本海海戦と名付けられた海上戦闘である。
この頃中国大陸に於いて日本陸軍とロシア陸軍の激戦が繰り広げられており、シベリア鉄道により陸路補給の出来るロシア軍と違って、海上交通により日本本土より補給をしなければならない日本軍にとって、制海権の確保は最重要課題であり、バルチック艦隊の有力艦艇を例え数隻でも打ち漏らしたら、大陸への海上交通が脅かされる危機的状況にあった。
まさにサッカーW杯の予選に例えれば、単に勝ち点を奪うだけではだめで、6点差とか8点差とかの大量得点を得なければならない戦闘であった。