今日8月15日は77回目の終戦の日にあたります。そこで、今回は何故日本は米国と戦争をしたのかについて考えてみたいと思います。
例によって長くなるので本文はこちら →『中国利権から見た太平洋戦争』
年金老人のつぶやき、四方山話
今日8月15日は77回目の終戦の日にあたります。そこで、今回は何故日本は米国と戦争をしたのかについて考えてみたいと思います。
例によって長くなるので本文はこちら →『中国利権から見た太平洋戦争』
昨日の『池上彰のニュースそうだったのか!!』の番組中で「水道水をそのまま飲める国は?」との設問で日本を含めて12か国しか無いとの話があったが、設問の立て方が不穏当であったと思う。水道水をそのまま飲めない!と言うと何か危険な水道水のような印象を持ってしまう。低開発国や低開発地域を除いて、およそ文明国では水道水は厳密に管理されており、水道水をそのまま飲んでも病気になることは無い。ガンジス河の水をそのまま飲むのとは話が違う。
だから、喉が渇けば水道水を飲んでも大丈夫である。無理して脱水状態になる方が問題である。しかし、番組でも挙げられていたように、大陸国の水道水は硬度が高い。マグネシウムのようなミネラルが大量に入っている。刺激の少ない下剤として酸化マグネシウムが販売されているが、これらの国の水の中にはこのような下剤の成分が大量に含まれている訳であるから、大量に飲むことは勧められない。(また、大量摂取は体内のミネラルのバランスが崩れる心配もある。)
便秘の問題は世界共通の問題であり、日本では伝統的な食事を通して食物繊維を日常的に取る事により予防しているが、欧米では硬度の高い水を飲む事により予防している傾向がある。日本では温泉は入浴するためにあるが、ヨーロッパでは温泉は飲むためにある。硬度の高い温泉水を飲んで便秘を解消するのである。
カリフォルニアで生活した事があるが、渇水期(カリフォルニアは雨季と乾季がある)に、水を流した後の干上がったシンクに赤い砂の様なミネラル分が一面に析出しているのを見たことがあり、やはり飲み水は買った方が良いと思ったことがある。
「前の戦争では京都の街もすっかり焼け野原になりましたー」と、京都の人が言えばその戦争とは応仁の乱(1467~1477年)だったりする。太平洋戦争では日本中の都市は空襲に遭い一面焼け野原になってしまったが、京都では応仁の乱以降全市街が焼け野原になるような被害は受けていない。しかし、実際にはそんな呑気な事を言っていられない事態に直面していたのだった。
第二次世界大戦に勝利するため米国はマンハッタン計画を策定し、全米の頭脳と技術力を総動員して原子爆弾を造り上げた。しかし、せっかくの原子爆弾が完成した時にはドイツは既に降伏しており、日本も戦争遂行する能力を失っていた。石油や物資の本土への輸送の道は寸断され、どんな悲観的予想をしても日本が逆転する可能性は無く、敗戦は時間の問題であった。しかし、原爆という強力な兵器を手にすると軍人はその威力を確かめてみたい欲求に駆られる。無人の砂漠などでの実験ではなく、実際に人の住む都市で効果を確認したくなる。
従って、日本への原爆使用は核兵器の威力を確認するための実験であったのだ。実験であるからには、その効果を確認しやすくするため、投下場所には3つの条件を定めた。①三方が山に囲まれ、一方が開けた平地である事。②原爆の破壊力を具体的に確認できるようにまだ空襲の被害を受けていない事。③ある程度の人口をもった都市である事。
地図を開いてみれば、山が海岸線まで迫り出し、山から流れ出た土砂が堆積した平地に都市が造られた場所が日本中に多くあることが分かる。東京、大阪、名古屋は大都市であるが、①と②の条件にはそぐわないので、原爆実験の候補地にはならなかった。
①~③の三条件にピッタリ合致する都市を米軍は見つけた。それは京都であった。京都は三方を東山、北山、嵐山に囲まれ、南側は淀川に向けて開けている。それまで空襲の被害を受けていない。そして人口も多い。そこで米軍は核実験の第一候補地に京都を選定した。もしかすると京都で最も古い寺の一つである東寺も絢爛たる金閣寺も残っていなかったかも知れない。
しかし、ここで猛烈な反対に遭う。既に日本の敗戦は織り込み済みで、終戦後の日本を統治する予定の民生局から、日本民族の文化の象徴である千年の都を原爆により破壊したら、戦後統治が困難になると心配したのだった。この反対により京都への原爆投下は一旦回避された。しかし、軍部における優先順位一番が変更になった訳では無い。
1945年8月6日広島に原子爆弾が投下された。もし、マンハッタン計画がこの広島に投下したタイプの原爆だけなら人の住む都市を標的とした核実験は、これで終わっていたろう。しかし、マンハッタン計画では同時並行してもう一種類の原爆を開発していたのであった。それはプルトニウム型原爆であった。広島に投下したのはウラニウム型原爆であり、理論的にはプルトニウム型の方がウラニウム型より破壊力が大きいと予想されていた。軍人としては是非プルトニウム型原爆を投下して威力を比較してみたい欲望に駆られる。
実験場所としては京都を希望したが、やはり反対が大きく小倉に投下することが決定した。ところが、何もかも順調に進んだ広島投下と比較して、小倉への投下は何もかもうまく進まなかった。小倉への原爆投下は不可能となり、重い原爆を抱いて飛行する間に長崎に投下の可能性が在るとの連絡が入った。長崎は、①と②の条件は満たすが、平地は狭く③の条件を満たさないため、候補地には挙げられず、あくまでもリザーブ(補欠)であった。せっかくの原爆を海に投棄する訳にもいかず、ともかく投下したというのが8月9日の長崎原爆投下の実態であった。この時、長崎に原爆を投下したB29爆撃機ボックスカーには出発地であるテニアン島まで戻る燃料は無く、占領直後の沖縄に不時着したのであるが、機体に燃料は一滴も残っていなかったと言われている。
その後日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏する訳であるが、京都への原爆投下優先順位一番は終戦の日まで取り消される事は無かった。
安倍元総理の国葬が決定しました。この国葬に関して私は反対します。安倍元総理の実績は認めますし、公費を使っての葬儀開催に反対する訳ではありませんが、国葬とするのは反対です。国葬のハードルが低くなって今後多くの国葬が開かれることになるでしょう。
安倍元総理に関しては色々書きたいことはありますが、今回はテーマが違いますので、詳細は述べません。今回は宗教と云うものについて考えてみたいと思います。
また例によって長くなるので添付に記します → 「宗教と云う事」
AUの通信障害には大変困りました。以下はウソではない本当にあった話です。
この三日間程、音声通話は全く使えず、メールが何とか使えるような状況でした。昨日(7月4日)午前10時35分に突然メールがポコポコポコと何件も団子で入って来ました。何だろうとスマホを開くとその内1件がカミサンから”10時半頃 XXXXの前にいるからお迎え宜しく”とのメールでした。内のカミサンは買い物に出かけると持てないほど買い込んで迎えを頼むことが度々ありますので、また買い込み過ぎたのだろうと思い、既に時間も過ぎていたので、取るものも取り敢えず、慌てて自動車を飛ばして指定の場所に向かったのですが、姿が見えない。
30分ほど待っても現れる様子が無い。カミサンのスマホに電話しようにも音声通話が通じない。おそらく到着が10時半よりも大きく遅れたので、腹を立てて歩いて家に帰ったのだろうと思い家に戻ると、程なくカミサンも帰宅。話を聞くと「そんなメールは打っていない。」との返事。「そんな事は無いよ、ほら10時35分にメールが入っているだろう。」とスマホ画面を見せたが要領を得ない。
よくよく調べてみると、これは7月2日の午後10時半頃に帰って来る息子を迎えに行ってほしいとのメールでした。息子とはだいたいの落ち合う場所も時間も分かっていたので、本来そのメールは不要だったのですが、何と、その時のメールが1日半掛って届いたという顛末でした。
先日8年に渡る東京オリンピック・パラリンピック2020の組織委員会が解散になったとのことです。コロナ禍の中での大変な競技開催となりましたが、日本選手の大活躍もあり無事成功したことをお喜びしたいと思います。
ところで、無観客試合となったチケットの払い戻しがまだありません。メールでは購入時に使用したVISAカードに返金されるとのことでしたが。
健康上の理由などによりロシアのプーチンの大統領在任は長くないとの観測がある。
今回のロシアによるウクライナ侵略はプーチンの戦争であるから、プーチンが居なくなれば、戦争は終わるとの観測が在るが、そうも行かないだろう。
プーチンが居なくなることは、必要条件であるが、十分条件では無い。戦争は簡単に始められるが、終わらせることは簡単では無いのだ!大東亜戦争は軍部が独断専行で始めた戦争で在ったが、軍部で終わらせることは出来なくなり、天皇陛下の御聖断によるしか無かった。ドイツも国土が連合軍により完全に蹂躙され、ヒトラーが自殺するまで戦争を終わらせることは出来なかった。今回の戦争ではロシア領土は1ミリも進攻されていない。
今回の終戦の形として、①ロシア完全勝利(クリミア半島のロシア領有化の確定と場合によってはドニエプル川以東のロシアへの割譲)②ウクライナの完全勝利(2014年のクリミア進攻以前の国境に戻し、ロシアに侵略による被害の弁済を求める)③その両者の間となる。
①に関しては、ウクライナの民意や武力による現状変更を認めない欧米日が承認することは無いだろう。②に関しては、ロシア国民の80%が今回の侵略を支持していることが問題となる。暴動が発生し、ロシア国内は収拾のつかない混乱状態となるだろう。③に関しても上記の理由により何処で線を引くかの落し処を見つけるのは困難であろう。
現在の中華人民共和国の領土は、かつての清帝国の領土をおおむね継承している。清帝国は中国東北部に居住していた女真(ジュルチン)族が明帝国を滅ぼして設立した征服王国であることは歴史に詳しい読者ならご存じのことであろう。
女真族は建州女真(マンジュ)、海西女真(フルン)、野人女真の三大勢力に別れていたが、建州女真に生まれたヌルハチが統一して、金国(アイシングルン)を建国し、やがて明帝国を征服し、現在の中国の版図を形作ることになる。言わば中国東北部は現在の中国の発祥の地と言える。ちなみに中国東北部全体をさす満州と言う呼称は、建州女真のマンジュから来ている。
さて、現在の中国発祥の地とも言える女真族の居住していた地域は、今どうなっているかかというと、かなりの部分がロシア領となっている(一般に沿海州と呼ばれている)。これは、1858年の璦琿(アイグン)条約により清国から割譲した結果であり、ウラジオストックやハバロフスクはこの地に建設された。この清国からの割譲の経緯は、暴力団でもこんな無法なことはしないだろうと言うような恫喝によるものであったが、ここでは詳細は控える。
現在ウクライナ侵略中のプーチンが侵攻の大義として、かつてこの地は、ノヴォロシアというロシア帝国の一部であったとしているが、その理屈で言えば、その当時、沿海州一帯は中国の一部であり、従って、中国にはこの地に侵攻する権利が有り、プーチンは甘んじてそれを受け入れる義務が有ることになる。
現在ロシア軍はウクライナ侵略に軍備を裂いており、失地を回復する絶好のチャンスかもしれない。
明治38年(1905年)5月27、28日の二日間にわたって日本海軍連合艦隊とロシア帝国第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)との間に対馬から鬱陵島海域の日本海に於いて激戦が交わされた。後に日本海海戦と名付けられた海上戦闘である。
この頃中国大陸に於いて日本陸軍とロシア陸軍の激戦が繰り広げられており、シベリア鉄道により陸路補給の出来るロシア軍と違って、海上交通により日本本土より補給をしなければならない日本軍にとって、制海権の確保は最重要課題であり、バルチック艦隊の有力艦艇を例え数隻でも打ち漏らしたら、大陸への海上交通が脅かされる危機的状況にあった。
まさにサッカーW杯の予選に例えれば、単に勝ち点を奪うだけではだめで、6点差とか8点差とかの大量得点を得なければならない戦闘であった。