フェイクニュース

古い話となるが、大東亜戦争中日本の新聞各社は大本営の発表するウソの戦果(フェイクニュース)をそのまま垂れ流しにしていた。戦後、新聞各社は自分達もウソ情報の被害者であったかのように振舞うがそれは違う。

新聞の目的とは何かと問えば、「社会の公器として国民の知る権利を守り、公正中立な立場で正しい報道を行なう・・」云々と答えるであろう。実際新聞社に勤めるほとんど人もそう思っているに違いない。しかし、実際は違う。『新聞の目的とは、新聞を売る事』である。連日米軍の空襲に晒され、親類や知人の戦死の情報に触れれば、人々は少しでも明るい希望の持てる情報に接したい。陰々滅滅とした敗北の情報を載せた新聞など読みたいとも思わないだろう。新聞社としても、戦地に従軍記者を送り、正しい情報を得る機会は内地の人々よりは多くあったはずだが、売れない新聞を発行するより大本営の尻馬に乗って売れる新聞を発行した方が良い。

19世紀の終わり頃に、当時スペインの支配下にあったキューバで緊張状態が発生し、米国居留民の保護を名目にハバナ港に入港していた米戦艦メイン号が謎の爆沈をしてしまう。ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙のハーストや商売敵であるニューヨーク・ワールド紙のピューリツァーは、これがスペインの陰謀であるとのでっち上げ記事(フェイクニュース)を互いに乱発し、双方とも新聞を売りまくった。そうして、最終的には米国世論を激高させ、スペインとの開戦(米西戦争)に繋がって行く。

大東亜戦争後も朝日新聞は、朝鮮半島で戦時中に従軍慰安婦の徴発を担当していたと述べる吉田誠治と称する男の証言を鵜呑みにして長年に渡り従軍慰安婦問題の報道を続けたが、後に吉田証言は虚偽であったことが判明し、平成26年に記事の取り消しと謝罪を行っている。しかし、この従軍慰安婦の問題は単なるフェイクニュースの範囲を飛び出して独り歩きをはじめ、日韓両国の間に大きな問題を残すことになる。

近年フェイクニュースが問題となっているが、フェイクニュースは最近の問題では無く、過去からの問題であった事が判る。ただ、インターネット環境の普及により誰でもフェイクニュースをより簡単に発信できる状況になり問題がより顕在化したに過ぎない。

そして、このフェイクニュースの背景にあるのは、人々のスキャンダラスな情報に触れたいとか現実の閉塞感から逃れたいという願望である。このような人々の願望という需要がある限る、それを満たす供給としてのフェイクニュースは無くなることは無い。

懲りもせず又やってしまいました

岸田総理のスピーチライターも務める荒井秘書官が問題発言をやってしまいました。以前にも書いたように、日本では本音で話す人間が大物というイメージがあるので、オフレコの場で大物ぶって、滔々と本音を吐いてしまったようです。

本当に懲りない連中ですね。

クリスマスカードが1ヶ月遅れで届きました

何時もクリスマスカードをくれるハワイ在住の友人のカードが去年届かなかったので、心配していたところ先日届きました。日本の年賀状は1月1日の届くのが礼儀みたいですが、ご存じのようにクリスマスカードはクリスマスまでに届けばよいので、12月に入ると届き始め、友人からも例年12月半ばから20日位には、届いていたものでした。消印を見ると去年の12月15日には投函されているようなので、今まで何処に手紙は消えていたのでしょうか?

成人の日おめでとうございます

今日は成人の日ということで、本日から大人の仲間入りされた皆様おめでとうございます。

私くらいの歳の人にとっては、自分達の若い頃と比べて、その生活パターンや言動の違いを見て「近頃の若い者は・・」と鼻白むことも多いのではないかと思いますが、少し以前にあった事を思い出しました。

あれは、コスプレというのが流行り出した頃ですが、我が家は江戸時代から続く古いお寺の参道に面しているのですが、その参道に異様な風体をした若者が何人もたむろしている。女房も気味悪がっている様子でしたが、その若者たちに「今日は何かあったのですか?」と、問いかけました。その時の若者の答えに深く感銘を覚えました。

「こんな格好で驚かれたでしょうが、私たちは市の商工会議所主催のコスプレ大会に参加していて、市内の名所を回っているんです。」と、ほほ笑んでパンフレット見せてくれた。「私たちはコスプレ大会に参加しているのです」と、応えれば一応、問い掛けに対する回答になっています。また「自分達で楽しくやっているのに、ウザい親爺が声かけて来るんじゃねぇーや!」と、無視するのも予想される対応でした。しかし、この若者の自分達の恰好が相手を驚かせているのでは無いかと思う気遣い、丁寧な説明、まさに100点満点に花丸を付けて返してあげたい見事な受け答えでした。

私たちの頃より青春を謳歌しつつも相手に対する気遣いの優しい心も忘れない若者の姿に、まだまだ日本も捨てたものでは無いと、日本の将来に期待を持ったものでした。

第99回箱根駅伝

正月恒例の箱根駅伝も無事終了し、私の応援する中央大学も総合2位でフィニッシュすることが出来ました。このところ低迷しており、予選会の常連化の危機もありましたが、目覚ましい躍進ぶりに嬉しい思いです。藤原監督の手腕の賜物と言えます。一方、往路2位で一時優勝も狙えるかと思いが浮かびましたので、ちょっぴりほろ苦い2位とも言えます。やはり駒大との選手層の厚さの違いや、駅伝三冠にかける強い意志、大八木監督の勇退へのはなむけとしての熱意が、三位以内を目標とする中大とのモチベーションの違いになったようです。

ところで、次回第100回大会では、全国の大学に門戸を開く様ですが、現在関東の大学と地方の大学では実力に違いがあり過ぎ、予選枠10校の中に1校か2校は入れれば良いところでは無いでしょうか。地方の大学のため、全日本大学駅伝のように地区毎の枠を設けても、往路で繰り上げスタートをするような事態になるのではないでしょうか。

あけましておめでとうございます

健やかに新しい年をお迎えのこととお慶びいたします。

昨年末は色々めげていて、しばらく更新していなかったのですが、何人かの読者の声を頂きまして、本年も筆を進めていきたいと思います。

とは言え、昨年からのウクライナでの戦争は続いておりますし、それに伴う、資源の高騰や政府の無策による円安や宗教問題、地球温暖化による異常気象など、今年も面白くない話が続きそうです。

今年は、宗教の話や地球温暖化の話などを中心に進めて行きたいと考えております。

独裁者は「ゴメン」と言わない

『過則勿憚改』(読み)あやまちてはすなわあらたむるにはばかることかれーとは、隣の国の偉い人の言葉である。間違っていたらさっさと改善しなさいと云う事である。

中国でゼロコロナ政策に反対する声が大きくなっているが、如何に民衆の不満が大きくなってもこれまでのゼロコロナ政策をおいそれと止めるわけにはいかない。中国は独裁国であるからだ。独裁者が自分の政策が誤りであったと認めれば、独裁体制は大きく揺らぎ、崩壊につながりかねない。ナチスドイツのヒトラーはスターリングラードの敗戦の責任をとって辞職しなかった(大東亜戦争中の日本の首相は戦局不振の責任を取り何人も辞職しているが・・)、結局最後まで政権の座にしがみつき遂には国家が滅亡している。

独裁者は政権の座に在る限り自分の過ちを認めない。可能性があるとすれば、「今までの政策はすべて正しかったが、これからは別の政策が正しい」と合理的に説明できるかである。最近になって中国政府は「コロナの毒性が下がっている」と声明を発しているが、「これまでのゼロコロナ政策は正しかったが、これからは別の政策に舵を取る」と、準備しようとしているように見える。

為政者は国民の声を封じ込めるように伝染病も自分の力で封じ込められると過信しがちであるが、実際には容易ではない。ウィルスには独裁者に従う気は毛頭無いからである。日本でもクルーズ船ダイアモンドプリンセス号を封鎖するという日本版ゼロコロナ対策を取ったことがあるが無残に失敗しており、その後はこの様な大規模封鎖は行っていない。

アトランタ五輪サッカー

人間歳を取ると色々のことを思い出すもので、昨日のワールドカップグループリーグでの日本戦を見ていて、1996年のアトランタオリンピックを思い出しました。

この大会では日本はオーバーエイジ枠を使わずに、キャプテン前園、ゴールキーパー川口らのフレッシュな力で世界に挑み、初戦ブラジルに勝利して、日本中を大いに沸かせました。今回のワールドカップのドイツ戦勝利の様なものです。第二戦でナイジェリアに敗れ、最終戦でハンガリーに勝利しましたが、グループリーグ突破は叶いませんでした。

結局予選リーグを勝ち上がった、ナイジェリアとブラジルが金メダルと銅メダルを取ったので、日本にとっては悔しすぎる大会でした。

中国は民主主義国家になるか?

前回、民主主義とは大変贅沢なモノで国民の大多数が生活に余裕を持つようにならないと定着しないと述べた。

かつて日本や欧米諸国が中国に積極的に投資した時には、中国国民が豊かになればやがては、民主主義が根付くであろうとの期待が背景にあった。

しかし、市場経済を導入した中国は、一部の国民は驚くほど豊かになったが、大多数の国民はいまだ生活苦を抱えている状態だ。これでは民主主義は発生しないし、根付かない。

民主主義が定着するには、生活が豊かとなり自身で勉強する余裕が出来て、知識を取り入れ、自分の考えを持ち、他者と議論することにより考えを洗練化し、国民一人一人の意見が、国を動かす大きな力となっていかなければならない。国民の大多数が生活苦に追われ、日々の生活が手一杯の状態では民主主義は発生しない。一部の富裕となった人々は自分の特権的位置を守るため民主化には冷淡となる。

さて、このまま中国が発展していけば、否応なく国民全体は現在より豊かな生活を享受できるようになる。その時、中国は真に民主化されるであろうか?ここに独裁国のジレンマがある。為政者にとっても国が貧しいよりは豊かな方が良い。しかし、国民全体が豊かになれば自分達の地位が脅かされる。国の発展を採るか、自分達の権力を守る方を取るかのジレンマが発生することになる。

現在中国では思想統制をとり、外国からの情報を遮断し、集会を規制している。しかし、国民生活が豊かになれば、何処からか知識を仕入れて来て、自分の意見を持つようになり独裁政権は危うくなっていくだろう。その時為政者は経済発展を諦めても自分達の地位を守ろうとするのではないだろうか?

かろうじて免れた米国の民主主義

事前の予想に反して、大敗すると思われていた米国の議会選挙で、民主党が善戦しました。

私は、別に米国の市民権を持っているわけでは無いので、どちらが勝とうと関係ないのですが、もし、投票権を持っていたら共和党によりシンパシーを感じる人間ですが、トランプ前大統領は認めることは出来ません。米国の多くの市民もトランプに嫌悪感を感じ、投票が民主党に流れたものと思われます。まだ米国の民主主義は健全性を保っていると言えます。

歴史は古代共産主義社会、王権社会、封建社会、絶対王政社会、議会制民主主義社会と進んで来たわけですが、単に時代が進めば民主主義が達成されると言うわけでは在りません。

民主主義は大変贅沢なモノなのです。単に民主主義制度という入れ物を作っても、その中に入れる民主主義精神が無ければ、民主主義国家は出来ません。民主主義制度だけを導入しても民主主義国家にならない国は現在でも世界に沢山在ります。

それでは、民主主義的精神はどの様に作られるかと言うと、国民の大多数が生活に余裕があることが必要条件となります。国民の大多数が貧しく、食うや食わずで生活に追われている国では民主主義的精神は生まれません。だから真の民主主義は大変贅沢な制度なのです。

多くの国民が豊かになり、生活に余裕が出てくれば、本を読んだり(別に本で無くとも良いのですが、)して、知識を得て自分の考えを持つようになります。そして、他者と議論することによりその考えをより洗練化することが出来ます。そして、各人が自分の考えを持ち、他者の考えも尊重する結果として、民主的な社会は生まれるのです。食うや食わずの国民が大多数を占める国では、日々の生活の追われ勉強して、議論を重ねる処ではありません。

民主的国家を維持するためには、大多数の国民に生活の余裕がある(中産階級が大多数を占める)事が必須となります。これは世界的に見ても大変贅沢な国家なのです。処が、現在世界では中産階級の没落が進み、持てる者と持たざる者の二極化が進みつつあります。富裕層は自分の特権を維持できれば良いだけなので、別に民主主義的国家を求める必要はありません。まさに民主主義の危機に瀕していると言えます。

そして、民主主義精神を失い形骸化した民主主義制度は、極めて民主的に独裁者を生み出す結果となります。